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現実と想像とマンガ

現実的な日記9

ご機嫌なアヒルが3羽、ソファーの上に陣取っている昼下がり。ニーアオートマタのサントラを聴きながら過ごす昼下がり。パン屋のパン食べ、物憂げなそぶりを孤独にしてみせる昼下がり。

少し穴のことを考えてみる。

穴の下と上がつながっていたら?

小さい穴なら、小さなお子様も昼下がりを楽しく過ごせるだろう。何故って、下の穴に入れた指が上の穴から出てくるのが楽しくないわけが、ないでしょう? きっと僕でもそうやって昼下がりを食いつぶすだろう。

もう少し大きい穴だったら? アヒルサイズの穴だったら? お年寄りも昼下がりを楽しく過ごせるだろう。何故って、下の穴に突っ込んだ腕が上の穴から出てくるのが楽しくないわけが、ないでしょう? 背中が痒くなっても、それが頑張っても届かない位置でも、穴を上手に使えば、背中を掻ける。孫の手はもう必要ない。

もっと大きい穴だったら? ギアガの大穴サイズの穴だったら? 誰も楽しく過ごせないだろう。たとえ、勇猛たるあなたでも。何故って、うっかり穴に落ちてしまったら、無限に穴を落ち続けることが、楽しいわけ、ないでしょう? 加速度によって無限にエンハンスされるスピードから逃れられない。端からみたら、あなたは残像でしかないだろう。

残像と化したあなたからもまた、周りの景色も残像でしかないだろう。けれどあなた自身は自分のことを残像とは思わないだろう。自分としては確かにそこにいるんだから。

ここまで考えて、人間や社会で横行するすれ違いは、穴の残像と同じということに気づく。あるいは、主観的世界と客観的世界のズレもまた、穴の残像と同じかもしれない。残像なのは俺とお前、どっちだ? という考えを、あなたは抱くかもしれない。

恐らく、社会から振るわれる暴力の矛先は、あなたの方に向くだろう。あなたから見ればそれは理不尽そのもの。けれど、社会とはそういうものだとあなたは、とことん理解しなければならないだろう。数の大小の差分は、力、そのものとなるだろう。

力は穴を塞ぎにかかるかもしれない。穴の周りを壁で覆ってしまうかもしれない。そしたらあなたは、暗闇の中で浮遊する、ただそれだけの存在になってしまうだろう。あるいはもしも、穴の下と上とをくっつけられてしまったら? あなたはどこに存在するのか? ひょっとしたら圧縮されてしまうのだろうか。穴の中であなたは、つぶれてしまうかもしれない。長い靴下を履く前に、ギュッと靴下を圧縮する。あなたは圧縮される靴下と似た様なものなのかもしれない。あるいは靴下以上に圧縮され、とうとう無になるかもしれないし、無限大になるのかもしれない。

だから穴とは不安の象徴として機能するかもしれない。

 

そうして僕は知見を得られた。穴と残像と不安は強く結びつき、新たなるイデアを構築することになる。素晴らしき、土曜日の午後よ。