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現実と想像とマンガ

『死因:わたモテ 喪157』〜谷川ニコに魂を持っていかれたとき〜

あなた。

呼吸、できていますか。できていませんよね、可哀想ですね。

人生、味わえていますか。味わえていないですよね、哀れですね。

私にはその理由がわかります。あなたは、喪157を読んでしまったから、ですね。本当にこの度は残念なことでした。現実はもう諦めなさい。とっとと裏の世界に来て、私とお友達になりましょう。

 

私は物語を取り込んで代謝して生きておる、醜くも必死な生き物であるわけだが、とりわけ"わたモテ"という永遠の黄金郷を見出してからは、現世の無価値感にほとほと呆れて過ごしておる。きっとお前らもそうだろうと想像する。なぁ、社会ってなんなんだろうな?

なぁ、映画でも小説でも漫画でも、何でもいい。優れて新しい物語に触れたときに、"持っていかれる"という、『鋼の錬金術師』ばりに、魂や肉体を奪い取られる体験をしたことがあるのではないか、あなたは? 私はある。というか、私はそのために物語を貪り食っていると言っても過言では無いだろう。しかし、そんな体験は稀である。どれだけ大金を積んだとしても、等価交換できる代物ではない。運命と根気の問題なのだ。そして、そんな体験を得られたとき、自分が本当に生きていると、実感できたとき、それこそが、幸せ、なのではないか? そう思うだろう? お前は。

私は、この木曜日正午に、わたモテに"持っていかれた"。魂を連れて行かれた。それは幸福な体験だった。お前も?

本当に私は今週のわたモテに感動した。本当に感動したのだ。それは決して、ストーリーライン/プロットが優れていた、という理由だけでは無い。そうもちろん、純粋にプロットが優れていたというのもあるが、それだけではないのである。根本的には、作者である谷川ニコの姿勢・心意気・態度に心を動かされたからこそ、感動したのである。これを私は講じたい。小一時間、他ならぬお前の周囲に影分身して取り囲み、気持ちよくなる物質(合法)を押し付けながら講じ倒したい、そう思いながら私は、「祝喪157更新打ち上げ」後の二日酔いのフラフラの頭でこの記事を書こうと思い立ったわけである。お前は真剣にわたモテに向き合っているか? 私は命を賭けている。

 

喪157「モテないし謹慎するってよ」。もちろん、『桐島、部活やめるってよ』の軽いオマージュである。中心人物の不在の錯綜・混乱と、そのあさっての収束を描いた、かの有名作を意識した作劇であったわけである。まぁ今回の話では収束までは描かれていないので、あくまで軽いオマージュと思われるが。

で、この展開、つまり、「もこっちの不在」が作劇されるであろうことは、前回の話のオチから、まぁまぁ予想されていたらしい。聞いているか。私はお前らのことを言っている。敬虔なワタモティストであるお前らは、まずまずこの展開を大雑把ながらも予想していたはずだ。・・・が、しかし。

ここまでと思っていたか?お前らは。

「もこっちの不在」から引き出された、これまでに溜まりに溜まった位置エネルギーの爆発性を、予想していたのか?と問いたい、お前らに。

修学旅行以降、もこっちを中心に錯綜に錯綜を重ねた群像が、とてつもないパワーをしこたま溜め込んでいたことを気付かせる、この作劇の偉大さを、予想していたのか?お前らは。私は、私は、予想していなかッたッッ。射程の外から致命的な攻撃を受けたッッ。脳味噌は生搾りグレープフルーツのごとく、グチャグチャに搾り取られたッッッ。5月23日午前11時35分、脳汁を撒き散らしたッッ、職場の、床に。。。アーメン。(死因:喪157)

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さて、もこっちの不在の話はこれまで全く無かった。わたモテという作品は、近頃群像劇が描かれるようになっていたとは言え、あくまで、もこっちが主人公であり、もこっちという愛すべきキャラクターが執拗に描かれ続けていた物語だったわけである。ところが今回は、徹底的にもこっちが排除され、もこっち以外のキャラクターが右往左往している。本当に右往左往している。その、彼女の不在の大きさが、哀しいほどに伝わるくらい、右往左往している・・・ゆりちゃん、ネモ、加藤さん、うっちー・・・。

私が言いたいことなぞ、賢明なお前らは分かりきっていると思うが、それでも言わせて欲しい。もこっちの巨大なる不在の表現こそが、逆説的に、もこっちの存在の巨大さを示しているのである、と。もこっちは、いつの間にか、巨大なる存在になっていたのだと。。。

そう。もこっちの不在という、わたモテ史上、前代未聞の作劇が、これ以上なく効果的で、かつこれ以外の演出が想像できない、すなわち唯一にして最大なる表現方法であり、まるで巨人の小さな小さな急所に、キリキリに研ぎ澄まされたレイピアで致命の刺撃を貫くような・・・そんな究極のワザマエを、目の前で、この令和の始まりに、まざまざと見せつけられた、その甚大なる感動を! 私は味わったのである!

何回でも同じことを言いたい。今回繰り出された、このアクロバティックな手法は、実際受けてみると、まさにこれ以外の手法は存在し得ないと思わされるわけである。決して正攻法では無いと思われたのに、実際には裏返って、正攻法としか思えなくなってしまった。その点に本当に私は感動した。

考えてみて欲しい。昨今のわたモテは、第二次ブームが明らかに到来している。最新刊のkindleのランキングも 1位を獲得していた。某掲示板の勢いも日に日に増しているという。twitterで#わたモテと検索をかけてみれば、いついかなる時も、お前らの魂の叫びが迸っている。原画展も大盛況だった。

凡百の漫画であれば、かように人気を博した時、どのような行動を取るだろうか? そう、凡百の漫画であれば、"守る"。時に本能的に、時に戦略的に、人間は、その勢いを失わせないために、"守る"・・・。その正しさを我々は否定することはできない・・・。 

しかし、見よ。わたモテを。谷川ニコを。今回の誠に勇敢なる作劇を。

わたモテは、谷川ニコは、完全に""攻め""ているッッッ!!!  そしてそれは完全なる成功を収めているッッッ!!!

谷川ニコの、この攻めの姿勢と、その手法の完璧なる成功に、私は猛烈に感動した。だから私は、向こう側に持っていかれた。このことを伝えたかった。

 

今回は細かい考察は特に書かない。twitterで#わたモテを追えば、アノニマスなお前らの粒ぞろいの考察がバンバン出てくる。それで十分だろう。

今後のわたモテの展開は、きっとますます凄いことになるだろう。私が見る限り、3-5の登場人物に、のっぺらぼうのモブキャラは一人もいない。これはもしかすると、最終的にはクラスメイト全員の群像劇を描くという、途方もないことに、谷川ニコが挑戦しようとしている、その意志の表れなのではないか、とも思っている。 

次にわたモテはどこに私を"持っていって"くれるのか? 今後も生存を続けるのが楽しみでしょうがない今日この頃である。  

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ところで、先日のわたモテ原画展に、敬虔なるワタモティストたるお前らは、無論参加したであろうことを、私は知っている。もちろん私もキンキチホからエンヤコラ参戦した。「ブックマーク浅草橋」で目にしたのは奇跡であった。谷川ニコという、純粋で真摯な作家の魂の息吹を、確かに私は感じた。1コマ1コマに、情念が宿っていた。

この作家は、本当に真面目なのだろうと思った。サイン本の絵を見ても、ここまで丁寧に描くか? と思えるくらいに、サービス精神に満ち溢れた、ひとつひとつ時間をかけたのであろう、美しいイラストだった(私は当選していないので、ネットに上がっていた写真を見ただけだが)。雑な仕事はしない。谷川ニコもまた、作品に魂を注いでいるのであろうことを強く感じた。

我々は谷川ニコを、守護らねばならない。