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現実と想像とマンガ

「それ町」の完結。髄液の氾濫。目から涙。

それでも町は廻っている』が連載として完結したのは2016年10月末。「漫画トロピーク」のランキング対象期間ギリギリであったため、完結枠として、僕は自分のランキングの11位に入れた。そして昨日、2月14日に、最終巻である第16巻、及び公式ガイドブック『廻覧板』が発売された。真の意味での、正真正銘の、完結である。

それ町」はずっと素晴らしい漫画であり続けた。主人公である歩鳥を始めとした、魅力的なキャラクター達。コメディというジャンルの枠に収まり切らない、ちょっとしたサスペンス要素や、ラブコメ要素、そして物語全体に通底する大きなミステリー要素。

単話ごとのミステリも秀逸な話が多かったが、それ以上に、時系列シャッフルという形式を利用しての、何話にも渡って伏線が散りばめられた、広大で複雑に絡み合った謎が明らかになる時のカタルシスといったら、まさに圧巻だった。

ネット上では、個人のHPあるいは掲示板などで、多くのファンが考察を繰り広げてきた。この話の何コマ目のこれがあの話につながって…云々、この話の真の意味は…云々。物語中で解説されない謎も多くあったので、こうした考察で初めて知る伏線や答えもあったりして、その度に、作者の入念な仕込みに唸らされるばかりだった。10年越しに仕込まれていた伏線を発見した時などは、脳髄がこぼれ落ちるかと思った。

このような伏線や謎が、今回発売された『廻覧板』において、「再読の手引き」として、作者自身の手で解説されているのだが、その膨大な情報量には改めて圧倒された。多分、この全てを解明できていた考察者はいなかったのではなかろうか。ただ逆に、この『廻覧板』でも解説されていない(し切れていない)、細かな要素も幾らかあるようである。たとえば、最終巻のp88,3コマ目とか。これは解説されていないが、よ〜く読まなければ気づかない上に、紺先輩の心情を表すシーンとして非常に重要な意味を持っている。

なんで唐突にこのコマの話をしたかというと、雑誌掲載時に、二、三回読み返した時に初めてアッと自分で裏の意味に気づいて感動した思い入れがあるからである。この話のこのコマだけではなく、念入りに読むことによって、キャラクターの重要な心情の理解に繋がる細かい要素があっちこっちに散りばめられており、何回読み直しても新しい発見がある。面白いことに作者自身も『廻覧板』において、「とりわけ『漫画』は読み返しをしてもらいやすいメディアなので、繰り返し読む事で発見されるような仕掛けを多く取り入れた様に思います」と述べている。僕は冨樫義博の『レベルE』が大好きなのだが、あの漫画も、繰り返し読むことで新しい発見があったりと、細かい伏線が張り巡らされた、ミステリ要素や遊び心に溢れた作品だった。その時以来、かつ、その時以上の経験を「それ町」はもたらしてくれた。

そう、「それ町」は読者を楽しませる、エンターテイメント要素に溢れた作品だったのだ。そういったサービス精神が、多くのファンの心を掴んだのかもしれない。

 

さて、最終話である「少女A」は、雑誌掲載時、あまり評判が良くなかった。時系列シャッフルであるため、この最終話が時系列として最後に当たるわけでは無いのは分かっていたが、それでも、長年の連載の終わり方としては、僕としても少々肩すかしだった。作者の意図も分からないではない、分からないではないが、もう少し、何か大きなカタルシスが欲しいと思った。それでも、偉大な漫画であり続けたのは間違いなかったし、まぁ、こういうのもアリなのかな……と当時(昨年の10月)思った。

そして昨日。発売された最終巻には、最終話のあとに、13ページだけのエピローグが続いていた。

素晴らしかった。言葉にできない思いが込み上げてきた。見事だった。この漫画のファンであればあるほど、大きな感動がやってくる、実に、実に素晴らしい決着だった。万感の思いとはこのことか、と思った。

最後の最後で、こんな大きなカタルシスが用意されるとは思っていなかった。やはり偉大な作品は、最後の最後に偉大に締めくくった。「それ町」が完結したのは、昨年の10月ではぜんぜん無かったのだ。

それでも町は廻っている』は昨日、2月14日に、まさしく、完結したのだった。