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厘のミキ『ミザントロープな彼女』:詳細レビュー <第10話を中心に> (既読者向け ネタバレ有りver.)

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本稿は、第2巻までの既読者向けである。未単行本化分については触れていない。

ここでは、物語の大きな転換点となる、2巻末に収録されている第10話を中心とした考察を行いたい。先のネタバレ無しのレビューでも少し触れたが、第10話はかなりの技巧が凝らされており、この演出が、ヒロインである花実の心情の変化への説得力へと繋がっているのである。

 

さて、第10話を考察する前に、物語の小転換点であった第5話(第1巻末収録)にも触れておく必要がある。

このエピソードは、なぜ、花実が人間嫌い”ミザントロープ”へと至ったかが初めて具体的に説明された、重要な回である。この話を通じて、花実が単なるへそ曲がりな性格なわけではなく、父親に関するトラウマが元となり、歪んでしまったということが示されている。さらに言うと、小千谷蘭のセリフにもあるように、花実が強迫的なまでに純粋な性格であるということも描かれ、かつ、小千谷はそのことを最初から看破していたであろうことまで暗に示されている。

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<画像:このシーン以前より、小千谷は花実の真の気持ちを看破している>

花実は、他人との重い関係を避けている。それは、かつて自分が父親を裏切ってしまったと思い込んでいるがために生じた、彼女のトラウマに起因している。

表面的な取り繕いとして、父親が現在孤独なことは断じて自分の責任ではない、と思おうと努めている。が、実は心の奥底では、自分の責任にしてしまっている。

そしてまた、”他ならぬ小千谷蘭に触発されて”自分の本当の気持ちを吐露している、ということが重要なポイントである。

自分が他人を傷つけてしまうことを恐れているがために、孤独を率先して望んでいるのだということが、このエピソードで読者に示されるのである。

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<画像左:表面上の思い 画像右:心の奥の吐露>

この第5話が、花実の変化として重要な第1段階の突破、すなわち自身のトラウマの表面化の成功である。

しかし、まだ花実の中には壁がある。それは、”まだ自分は孤独を望んでいる”という点である。この第二段階が突破され、花実のトラウマが真に昇華されるのが、第10話というわけである。

 

また、この第5話から第10話への伏線として、”涙を見せたがらない”という点も重要である。第5話においては、小千谷に対して自分の涙を見せたがらない。花実と小千谷との関係性の変化への、明確な伏線となっているので、注目しておく必要がある。

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<画像:涙は見せたがらない>

そして問題の第10話。このエピソードは、表面的には、夏祭りを通じて、花実と小千谷との関係性が深まる、というお話なのだが、その裏には強烈な技巧が凝らしてある。その解説を行いたい。

 

まず冒頭で、花実の心情の吐露、「父を差し置いて、自分だけが幸せになるわけにはいかない」という、第5話を踏まえたシーンがある。彼女の(第二の)壁を提示していると同時に、小千谷と関係を深めることが自身の幸せに繋がると心の底では勘付いていることが示されるシーンである。

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<画像:"自分だけ幸せになるわけにはいかない">

その後、友人と母親の助力もあり(ちなみに彼女たちは物語中の援助者としての機能を果たしている)、小千谷と二人で夏祭りに出かけることになる。

始まりの時点では、やはり小千谷と二人でいると、楽しむことができる(幸せになれる)ことを自覚する花実。しかし同時に、やはりその幸せに甘んじることはできない、と、自ら手を離してしまう。

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<画像左:一瞬幸せを自覚するが、我に返ってしまう 画像右:そして"幸せ"から自ら手を離してしまう>

そして、再び、孤独の時間が始まる。ここからのシーンは二重の意味を帯びる。すなわち、表面上は夏祭りの独り夜行。が、真の意味合いは、自身の人生の反芻と試練である。

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<画像:この瞬間から"お祭り"と"花実の内面"が融合する。現実で祭りの喧騒が「シン」となるはずが無い>

独りになった花実は、やはり孤独であることが宿命であると思い込もうとする。が、直後に、小千谷からの声がかかり、一歩足を踏み出すことになる。

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<画像:小千谷からの吸引力に、引き戻され始める花実>

このシーン以降、コマの中での、花実の左右の向きが重要な意味を持つ。すなわち、左向きが、前向き・前進などの意味を表し、右向きが、後ろ向き・後退などの意味を持つ。(なお、ご存知の方は多いと思うが、基本的に日本の漫画は右から左に読むように作られているため、読者の視線の向きに応じて、左向きが前進、右向きが後退、の意味を表すことが多い)

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<祭りのシーン中、ほとんどのコマで花実は左向きになっている>

小千谷と離れ離れになった花実は、小千谷の元へ行こう、という気持ちが少しだけ湧く。

一歩前進した花実がまず出会うのは、これまでの話で出てきた、モブ的な不良である。彼らは花実にとってほとんど関係の無い、その他大勢の象徴であり、あまり大きな意味はもたらさない。

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<画像:その他大勢の象徴>

が、直後に、花実に迫るもう一人の存在、青木が現れる。青木はしかし、花実の救済となる存在にはならない。なぜなら、青木は自分のことが第一で、花実のことを想う気持ちに乏しいからである。そのため、花実は青木を振り切り、小千谷の元へとまた一歩、前進する。青木は自己愛の象徴である。

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<画像:青木が見ているのは自分自身だけで、花実のことは見ていない>

その次に出会うのは、クラスメイトである溝口。彼は人畜無害な人間として描かれているが、自身の弟と妹と共に過ごしており、この場では家族を大事にしていることが窺える。彼は家族愛の象徴として機能しており、花実を気遣う姿勢は見せるものの、彼もまた、彼女の相手役とはならない。

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<画像:彼が大切にしているのは、彼自身の家族である>

そして次に現れるのは、彼女の友人である、遠山である。遠山は最初「たこ焼きを食べよう」などと言って、花実を誘う。花実は「…分かった」と、この道が正しいのか疑問に思いつつも、右向きに”後退する”。すなわち小千谷から遠のき、自分を想う友人へと向かおうとする。しかし直後、男好きの遠山は花実の元から離れてしまう。遠山もまた、花実の相手役とは成りえない存在であったことが示される。遠山は”男好き”の象徴で、花実のことを直視していない。

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<画像:一瞬、友人に誘われ後退する花実>

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<画像:しかし直後、遠山は男にしか意識が向かなくなる>

遠山から離れた花実は再び、左向きに前進する。しかし、ここで、花実の前に岐路が立ち現れる。道が二つに分かれており、どちらに向かえば良いのかが分からない。

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<画像:道は左右に分かれている>

この場面で、援助者が現れる。すなわち、小千谷の弟である。彼は彼女に、行くべき方向を指し示す。彼は門番の役割を果たしており、彼女はここで、身内からの”許可”を得て、小千谷の元へ向かうことになるのである。

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<画像左:初め彼女に挑戦的な態度を取る弟 画像右:しかしその後、道を与えてくれる>

最後に彼女に試練が訪れる。彼女の前には人の壁が立ちふさがり、前進することが難しい。彼女は、一度あきらめかけ、右向きに後退する。

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<画像:障害に阻まれ、一度は諦めかけ、右向きに後退する花実>

しかし、花火の音を契機として、思い直す。小千谷はきっと待っている、これまでに彼との間に培われてきた関係性を思い返して、彼だけは彼女を想う存在であると、確信する。そして彼女は、自分自身の力で、人の”壁”を突破する。

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<画像左:"見上げる"という表現も"希望"を表していると思われる 画像右:最終的には自分の意志の力で試練を突破する>

そして、とうとう、彼、小千谷蘭との再会を果たす。

表面的には、お祭りの中を歩いて進んでいただけである。しかし、既に述べたように、真の意味は、彼女の人生の反芻と試練である。ちなみに、この再会のシーンで、小道具として、花実の髪留めが落ちる。すなわち”つきもの”が落ちるのである。

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<画像:下に落ちる輪っかの"髪留め"にも注目>

小千谷から「寂しかった?」と訊かれる花実。彼がここで口にした言葉は、単に祭りの中、独りで寂しくなかったか、という一重の意味でしかない。

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<画像:彼の意図としては、深い意味での問いかけでは無いと思われる>

しかし、対する花実の回答は、二重の意味を持つ。「なんかずっと大丈夫だった」という言葉の真の意味は、彼女の人生についての深い深い思いが込められているものであった。すなわち、これまでの人生では独りで”なんか”ずっと大丈夫だった。”なんか”やってこれていた。しかしその裏側に込められた思いは、やはり独りでは”寂しかった”ということに他ならない。

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<画像:彼女の目の作画からも、話されているのは深い言葉であることが読み取れる>

その後、花実は小千谷に抱きかかえられ、高台の神社へ辿り着く(ちなみに、高い場所へ移動することは、ステージアップとしての”成長”を象徴する場合が多い)。

そしてここで花実は、小千谷から、彼女が必要な存在であることを説かれる。小千谷こそが、彼女の真の望みの対象であったことが、ここで明確に示される。小千谷が示す象徴は、もはや明らかである。

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<画像:彼女は初めて人に必要とされる>

だからこそこの場面で、花実は涙を流す。第5話では見せたがらなかった涙を、小千谷の目の前で流す。

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<画像:涙を流すことを、隠そうとしない>

改めて、彼女は進んで孤独になりたかったわけではなく、孤独に”ならないといけなかった”と強迫的に思っていたことが示される。

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<画像:それまでの彼女に宿っていた、深いトラウマ>

けれども、彼女の目の前に現れた存在、変人のストーカーと捉えていた小千谷こそが、彼女にとって、絶対的に必要な存在だったことが、この夏祭りの数々のシーンを通じて彼女にも、読者にも、明らかにされた。

 

だから花実は、心の奥底にあった、彼への愛情に気付き、最終ページで吐露するのである。

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<画像:これまでの演出により、この最後のシーンに強い説得力が生まれている>

何度も言うが、この第10話は上記で解説したように、非常に完成度が高い。漫画的技巧や細かい演出、これまでのエピソードに登場した人物が示す象徴など、集大成的な話となっている。

精読すると、全てのコマに無駄が一切無く、感嘆するほか無い。

以上の考察は、何気無く読んでいても、たぶん、何となく読者に理解されるように、自然に作られている。しかし言語化してみると、かように驚くほどの技術が詰まっていることがわかる。物語上の大きな転換点となるこのエピソードを、強い力で支えているのである。

 

さて、本稿においては未単行本化分に関しては触れていないが、実際このエピソードが転換点となり、現在新たなる展開へと突入している。率直に言って、めちゃくちゃ面白い。

また今回のように解説したいと思っているが、これだけの考察のしがいがある作品。やはり傑作である、という言葉で、本稿を結んでおこう。

 

ミザントロープな彼女(1) (アフタヌーンKC)

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