ねとはとは何なのか③
昼下がりのスターバックス。カフェーと談話で賑わう客たち。キャッキャ。ウフフ。
しかし伯爵の存在に次第に彼女たちは気づき始めたらしく、恐怖の輪が広がっていく様を僕は肌で感じた。
「席を取っておいてください。ああ、コーヒーは私のおごりですよ。何せ、私は伯爵ですからね。ははは」
私は伯爵に言われるがままに席を取った。両隣の客は何か察するものがあったのか、そそくさと帰る準備を始めた。
伯爵はゆっくりとレジに近づいていった。
店員の顔が凍りつくのが見えた。これほどまでに緊張感に満ちたスターバックスを見るのは、僕は初めてだった。
幸い、レジでトラブルが起こることは無かったようで、両手にコーヒーを持って伯爵は席についた。
カリッ、カリッ、と何かをかみ砕くような音が伯爵の口から聞こえてきた。どうやら、猿の骨まで辿り着いたらしい。少しでも椅子が離れていて良かった。もう少しでも近くにいたら、腐臭で我慢ができなかっただろう。
少しづつ、客が減っていくのが見えたが、周りを気にする余裕は私には無かった。眼前の男の一挙手一投足に集中しなければ。
「どうぞ、コーヒーです。一番シンプルなやつですが」
「ありがとうございます」
私と伯爵は一口ずつ啜った。緊張感からなのか、何かがのどに引っかかるような感覚があった。ふー、と息を吐き出し、心を落ち着かせた。
「それではインタビューを始める」
私は生唾を飲んだ。伯爵の気配が変わった。ビジネスライクな殺気とでも表現したら良いのか。しかしなぜインタビューを受けるだけで殺気を受けなければならないのか、私にはさっぱりわからなかった。
「お願いします」
「あなたは何者ですか」
「それ、さっきも聞いたじゃないですか……」
あれだけ苦労してオープンクエスチョンに答えたのに、何故同じ質問をされなければならないのか。
「質問に答えろ」
急に命令形になった伯爵に戸惑いながらも、同じ返答をすることにした。
「無害であろうとしている人間です」
「よろしい。では次だ……」
おいおい、よろしいのかよ、と心の中でツッコんだが、口には出さなかった。殺気はまだ放たれている。
「ご趣味は?」
おいおい、お見合いかよ、とも口には出せなかった。
「漫画読みです」
「ほう」
伯爵は頷いた。
「それは結構。世の中には多くの、物語を伝える媒体がある。小説、映画、アニメ。それぞれ特色がある。得意不得意がある。その中でもあなたは漫画を選んでいる。その理由は?」
ようやくインタビューらしくなったなと思いながら、私は質問に答える。
「漫画でしか表現できないものに魅力を感じるのが第一点です。観念を豊かに伝えうる絵。コマ割りを含めた、ページ単位のコマ構成、演出。自分の時間で読めるというのも副次的ですが魅力の一つですね」
「ほーん」
アホみたいな声を伯爵は口から漏らした。
「あっそう。そうですか。いかにも、っぽい答えですね。しかし、つまらないですね。飽きましたよ、正直」
いつの間にか伯爵から殺気が消えていたが、今度は私が殺気を抱きそうになった。一体この時間は何なのだ? 何故私は、態度をコロコロ変える自称・猿伯爵にバカみたいなインタビューを受けているのだ? というかこれはインタビューと言えるのか?
ここで初めて、当然抱くべき疑問がようやく沸き起こってきた。
何故私は、道でたまたま出会った黒い腕のオッサンにインタビューを受ける気になったのだ? コーヒーの表面に反射する自分の顔を見つめながら、自問自答をした。
「そろそろ気づき始めましたか」
伯爵の顔を見ると、口の箸がつり上がり、奇妙な笑みを浮かべていた。私は全身の毛が逆立つのを感じた。
「猿の手の願いは、実に超常的なものでした。有名な逸話通り、失うものも大きかったですがね」
伯爵が何を言っているのかよくわからなかったが、非現実的な内容を述べていることは察せられた。
「今日は私が飽きましたので、インタビューの続きはまたの機会にしましょう。まぁそもそも別に、対象はあなたでなくても良かったのですが、私の気まぐれです」
「またの機会と仰いますが、今回で最後にしましょう。一期一会ということで、連絡先も交換せず……」
「いいえ、私はあなたの居場所がわかるんですよ。正確に言うと、さっきわかるようになりました。いつでも会いに行けます」
「何を言って……」
ここでハッと気付いた。”腕の毛は追跡できる””簡単には抜け落ちず、自分の意志でしか抜けない””コーヒーを飲んだときの、のどに引っかかる感じ”。
「察しは良いようですね」
伯爵はにんまりと笑った。
「先ほどお話ししたように、私の腕の毛は、私の体から離れた後もどこまでも追跡できます。さっき、一本抜いて、あなたのコーヒーの中に入れておきました。今頃、あなたの消化管のどこかの粘膜に張り付いていると思います。簡単には流れていきませんよ。何人かで実証済みです。これでいつでもお会いできますね」
全身が凍りついた。得体の知れない猿男に、完全に飲み込まれてしまった。
「私が会いたいときに、自由に会いに行きますよ。あなたが何をしていようとも、ね。では、今日のところは失礼します。私もこう見えて、いろいろ忙しいんですよ。何せ、飽きるのは嫌いなのでね」
そう言いながら伯爵は財布から茶色い猿飴を一つ取り出し、口の中に放り込んだ。
「それでは」
気がつくと、スターバックスの喧騒が周りに戻ってきていた。夢でも見ていたのかと思おうとしたが、こみ上げる吐き気が嫌が応でも現実に引き戻させた。
私は後日、上部内視鏡検査を受け、毛が張り付いていないか調べてもらったが、特に何も見つからなかった。
伯爵の単なるはったりだったのか、それとも十二指腸から先に流れてしまったのかはわからない。
しかし、いずれにせよ、私は再び伯爵と会うことになる。
その話は、また後日、ここに記すことにしよう。
《続く》