ねとねとねとはのねとねと日記

現実と想像とマンガ

漫トロピー②

時は2008年が明けたばかりの冬の頃。山科駅。客を待つタクシーもどこか寂しげにみえる、寒い夜。

飲み会の帰りで少し酔っていた僕は、その場所その時にふと思い立ち、とあるメールを友人に送ろうとしていた。

詳しい文面までは覚えていないが、ほんの数行だったことは間違いないし、これを決断と呼ぶには些か抵抗がある、本当にちょっとした文面だった。

けれど今考えてみると、この時点で既にいくつかの偶然が積み重なった、とある結果に至った状態であったのだ。

この偶然と結果について説明するために、さらに話をこの前年に遡らせて頂く。

 

その頃の僕は乾いていた。

スイエーというゲームをご存知だろうか。

直方体型の、水を溜めた大きな容器(“プール”とも呼ばれている)の中で、端から端まで移動する時間の早さを競うという、結構有名な肉体ゲームだ。そのスイエーに興じる部活に、当時の僕は所属していた。

その部活の多くの人間が、右腕と左腕を交互に振り回し、右脚と左脚を交互に上下運動させ、とにかく全身の筋肉を使い、水の中を這うように進んでいた。

入部当初は、週に3回くらい、僕もガブガブ泳いでいたりしていたのだが、だんだん辛くなってきて、とうとう「私はスイエー部に所属しています」というセリフを連呼するだけの機械を口の中に埋め込むハメになってしまった。その機械は水に濡れると痛んでしまうため、次第にプールから僕の足は遠ざかった。

 

ところで”マリオカート”というゲームはご存知だろうか。

あれもスイエーと非常に似たゲームで、移動の時間の早さを競うという点においてはほとんど同じと言って良い。しかしこのゲームがスイエーと大きく違うところは、”ゴースト”なる概念が存在するところだった。

これがまた非常に優秀な概念で、なんと、これまでの自分の最速映像”ゴースト”が、今現在の自分の目の前に映し出されるのだ。

すなわち、”ゴースト”に勝つことを常に目指していけば、最強の自分に近づけるのだ。マリオカート、侮りがたしである。

一方で、残念なことにスイエーには”ゴースト”という概念は存在しなかった。

恐らくは近い将来、”VR水泳ゴーグル”なるものが開発され、スイエーにも”ゴースト”が実装されることとなると思われるが、今はまだ時代が追いついていないようだ。

 

そんなわけで、「なんじゃい、マリオカートにはゴーストが実装されているというのに、スイエーにはゴーストが無いではないか。そんなら、マリオカートの方が優れたゲームと言えなくも無いのではないか? それに、動かすのは指だけでいいし」と思ってしまった僕は、マリオカートばかり頑張って、グダグダに日々を送っていた。もうプールに行くことはほとんど無くなってしまっていた。

 

少し、むなしかった。

 

なぜむなしかったのか?

今の僕ならわかる。スイエーはみんなと一緒にできるコミュニティがあるけれど、マリオカートには無かったのだ。要するに、マリオカート部は存在しなかったのだ。

しかも、そのうち僕はマリオカートに飽きてしまった。なぜ飽きてしまったのか。

今の僕ならわかる。指しか動かさないし、目も疲れてしまうのだ。しかも、スイエーは周りが応援してくれることもあるが、マリオカートは誰も応援してくれないのだ。孤独な戦いなのだ。僕は、孤独には向かない性格だったのだ。

 

僕は、途方に暮れてしまっていた。かといって、スイエーに戻るのも嫌だった。なぜなら、無茶苦茶疲れるし、そもそも水着に着替えるのが尋常では無いくらい面倒臭いのだ。ついでに塩素も臭いのだ。

 

お先真っ暗とはこのことか、とも思った。

しかし、暗闇の中にこそ、小さな光明が目立つもの。

実は視界の端には、常にチラチラと瞬く光があった。

マンガだ。僕のそばには、常にマンガがあったのだ。

僕はマンガを読むことが三度の飯よりも好きだったのだ。

マンガのコミュニティが欲しい!

 

賢明なる諸兄なら、ここで疑問が浮かぶだろう。

マリオカートが孤独な戦いだからこそ「いやじゃ いやじゃ」と駄々をこねていたというのに、マンガはもっと孤独ではないか。ロンリー、ロンリアー、ロンリエストでは無いか!

しかしここでもう少し考えてみて欲しい。

我々は固定観念に縛られているのではないか。マンガは一人で読むもの。果たしてそうだろうか?

マンガを、みんなで読んだって、良いじゃないか?

そう思った僕は、京大中のサークルを探し回ることにした。

(注1:僕はマンガを描くことに興味は無い、というか描けないし、読むことのみに興味があった)

(注2:僕の大学は京都大学だった)

(注3:探し回ると書いたが、僕はすぐ疲れるので、言うほど回らなかった)