現実的な日記7
チャイムの音が鳴った。
ドアを開けると、ピーちゃんが立っていた。
「ピー、ピィピィ、ピピピッ」
チャイムの音が鳴った。
ドアを開けると、ピュイちゃんが立っていた。
「ピュイ? ピュイピュイ……ピュピュイ!」
チャイムの音が鳴った。
ドアを開けると、ピッピちゃんが立っていた。
「ピッピピッピピッピ!」
チャイムの音が鳴った。
ドアを開けると、白くて首が長く、クチバシが黄色い鳥が立っていた。
アフラックのCMでも見たことがあるような鳥だ。
「私はアヒルです」とその鳥は言った。
しかし、私はその鳥のことが全く信用できなかった。
何しろ、うちにいる3羽のアヒルとは形状が全く異なっている。
「嘘をつけ!」と私は叫んだ。
「信用してください」とその鳥は言った。「私はアヒルの理念型を体現しています。私はアヒルがアヒルであるための、あらゆる資質を備えているのです」
私は反論した。「しかし、うちにいるアヒルとは、姿形が全く異なるではないか」
「彼らは彼らでうまくやっているのでしょう。けれども」
「うちのアヒルを侮辱するか!」
私は手に持っていたアヒル・クビキリ・ナイフを振り上げ、そのアヒルと名乗る鳥の首を斜めに切断した。ガァーッという断末魔が、その生首から聞こえてきた。血も流れることなく、首と胴体はゆるやかに消失していった。
チャイムはもう鳴らなかった。
私はベッドへと引き上げ、3羽のアヒルと共に眠りについた。
何となく、これで平和になる、と思った。それは確信に限りなく近かった。
しかしアヒル・クビキリ・ナイフと、あの鳥との間を結ぶ、矛盾線が、確信を少しだけ遠ざけていた。
しかしこの世界に絶対は無い。私はそのことを、とことん理解しなければならない。それがイニシエーションであり、きっと今の私にとって必要なことなのだろうと思った。
ねとはとは何なのか④
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私がモンキー伯爵からの”呼び出し”を受けたのは、あの恐怖の出来事から三日後のことだった。
下腹部の辺りがチクチクとして、最初はただの腹痛と思おうと努めたが、あまりにも痛みと痛みの間隔が人工的・意図的に感じられたため、伯爵の腕毛が遠隔操作されているのだと解釈せざるをえなかった。どうも例の剛毛が腸の辺りに食い込んでいるらしい。引っ張られるような痛みだった。
先日の去り際には、自ら会いに来るとか言っていたくせに、話が違うではないかと腹が立ったが、コロコロと言うことを変えるのが、かの人物の悪癖だったと思い出し、ため息をついてあきらめた。
それでは、一体どこに向かえば良いのかと思ったが、どうも痛みには”方向”があるらしいことがわかった。要するに、引っ張られる方向が一定なのだ。前を向けば前方に引っ張られ、180度体の向きを変えれば、後方に引っ張られる。伯爵と腕毛の間に、強力な引力が働いていると考えるのが分かりやすい。
痛みも少しずつではあるが強くなってきたので、急ぎ支度をし、痛みの指す場所へと足を向けた。三角測量の要領で、だいたいの距離は見当が付き、歩ける距離だと判断した。しかし、まったく、こんなわけのわからないことで三角測量の知識を使いたく無かった。
2kmほど歩いて到着した目的地は、廃工場のようだった。試しに周囲を廻ってみたが、チクチクの方向は明らかにこの中が正解であると告げていた。中途半端なフェンスで囲ってあり、立ち入り禁止な雰囲気を醸し出しているくせに、簡単に入り込める、雑な作りになっていた。不良の溜まり場とは、こういうところにできるんじゃなかろうかと思った。
入りやすそうな場所を見つけてフェンスを乗り越え、眼前にそびえる錆だらけの建物を見渡した。一般的な学校の体育館と同じくらいの大きさのように思えた。
やはり錆だらけで汚らしい扉が中途半端に開け放たれており、私はその隙間からそっと中を覗き込んだ。すると目の前に、かのモンキー伯爵の顔がヌッと現れたので、心臓が飛び出そうになった。同時にものすごい嫌悪感と吐き気が込み上げてきた。伯爵の口がもぐもぐと動いているので、どうも例の猿飴をほおばっているらしい。少し遅れて、強烈な腐臭が意識の俎上に上がってきた。吐き気の原因はこれらしい。だが、嫌悪感の原因は、伯爵の存在そのものだろう。
伯爵は開口一番「タワケ!」と唾を飛ばしながら叫んだ。私は唾を避けれず、顔面いっぱいに臭い汚水の雫を垂らすはめになった。なぜ私はこんな目に遭わなければならないのか、驚きと怒りと悲しみと怖れの感情が押し寄せてきたが、それを何とか抑え、冷静にこの現実を乗り越えようと努めた。
「伯爵、お呼びでしょうか。そして、なぜタワケなのでしょうか」
「お前が来るのが遅すぎるからだ。待ちくたびれた。もう少しで、私の腕毛でお前の腸を突き破るところだった」
伯爵の言葉を信じるならば、どうやら私の腹の中にあるのは、受信機の役目どころか、遠隔操作型の爆弾に近い代物でもあるらしい。改めて背筋が冷たくなるのを感じた。
目の前には以前と同じ、ゆったりとした格好、かつ腕毛全開の伯爵が立っていたが、そのもう少し後ろに、数人の男女が向かい合って立っているのが見えた。男女混成の4人組が、二組だろうか。緊張感が漂っている。彼ら彼女らも、私と同じように伯爵に呼び出されたのだろうか。
伯爵は、ものすごい勢いで笑顔を形作った。狂気と紙一重の笑顔だった。
「お前には審判を務めてもらう」
何の前置きも無しに、伯爵は唐突に言った。
「審判?」
「楽しい楽しい、異種サークル対戦の審判だ。ここには、もはや楽しさしか存在しない」
どこからどうみても、楽しげな空気のかけらも見当たらなかった。後ろにいる8人の男女が一様に示している表情は、まるで死の覚悟を決めているようにも見えた。
《続く》
衿沢世衣子『うちのクラスの女子がヤバい』 :レビュー(未読者向け ネタバレ無しver.)
日常と非日常の巧みなる同居
オススメ ★★★★
漫画を読むとき、何を求める? リアリスティックな日常? ファンタジックな非日常? その両者がこの作品には混在している。それも自然なバランスで。見事な塩梅で調和して。
ーーこの高校の1年1組は少しばかり特殊である。「無用力」と呼ばれる、主に思春期の女子に生じる超能力を持った生徒が集まっているのだ。その名の通り、ほとんど役に立たない能力ばかり。たとえば、とある少女はイライラすると指がイカになる。ビックリすると空に浮いてしまう女子もいれば、急に体がぬいぐるみになってしまう女子もいる。そんな女子高生たちに、クラスの男子は振り回されたり、ぜんぜん何てことのない日常を送ったり。少しばかり不思議だけれども、やっぱり青春で恋も友情もある、ふつうな高校生活を、彼ら彼女らは送っていくーー
<"無用力" イライラすると指がイカになる少女>
昔から僕は、衿沢世衣子の漫画が好きだった。
出自としては、いわゆる”サブカル”寄りになるだろうか? 今は無き「コミックH」や「COMIC CUE」、今も有りしサブカルの極北「アックス」、等々の雑誌で描き勤しんできたのだから、漫画界の中でも、(あんまり良い表現じゃないかもしれないが、)だいぶ端っこの方に、デビュー当時は位置していた。けれど一定数のファンは付いていた、そんなイメージ。しかし嬉しいことに、ここ数年で、だいぶメジャーになってきた。
主に彼女が得意としているのは、女の子、それも多くは女子高生の、心の機微の描写だ。マンガ的なキャラのようで、けれども同時に何となく現実にもいそうな、ふわふわっとしたキャラクター造形は作者ならでは。その作風が確立されたのは、おそらく『シンプルノットローファー』(2009年発刊)だろう。天真爛漫な女子高生たちの、とある1クラスの群像劇で、各話ごとに1~2キャラにフィーチャーしている。何てことのない、ごく普通に個性的な彼女たちの日常の中の、ほんのちょっとした出来事の、その一瞬を、綺麗に写真に収めるかのように活写した、まるで青春のアルバムのようでもある、見事な一冊だった。
小説家で例えると、長嶋有の作風とも少し似ている。というか実際、氏の小説のカバーイラストも描いていたし、その後、当の小説「ぼくは落ち着きがない」の漫画化も担当したのだから。そのコミカライズも、息ぴったりの印象だった。
一方で、衿沢にはまた別の得意分野がある。Sukoshi FushigiなSF要素だ。多分一番最初は、雑誌「COMIC CUE」のドラえもん不思議道具企画の『鳥瞰少女』(短編集『おかえりピアニカ』収録で、タケコプターが題材)だと思うが、以降には、『ウイちゃんがみえるもの』『新月を左に旋回』などの作品がある。
たいていの作品はコメディ寄りの作風で、読後感も爽やかなものが多かった。ところが、「えっ、こんなのも描くの(描けるの)」と思ったのが『ツヅキくんと犬部のこと』(2013年)だ。原作付きではあったものの、結構リアリスティックかつシビアな内容で、ほろ苦い要素の多い作品だった。作風に幅が出てきたものだなぁ、と当時思ったのを覚えている。
前置きが長くなってしまったが、今作である『うちのクラスの女子がヤバい』はそんな作者の、集大成とも言える作品になっている。上記の要素を、ほとんど全部ひっくるめた、鮮やかな料理に仕上がっている。すなわち、高校生の青春群像劇で、Sukoshi Fushigiで、ほろ苦さもある。しかも、これは今までの作品ではあまり見られなかったことだが、物語の背後にある種の陰謀が見え隠れしており、伏線がちょこちょこと張られている。一本の大きな背骨が通っており、そういう意味では新境地でもある。これは彼女の新たな代表作になるのではあるまいか。
本作はオムニバス形式で、各話ごとに、約1~2名の女子生徒がクローズアップされる。「無用力」という題材を巧みに使い、彼女たちの”個性”が、”より個性的に”描写される。スッとした絵柄は大変好みやすく読みやすい。ストーリー展開も、もはやこなれたもの。各話冒頭から引き込まれ、ついついサラッとページをめくってしまう。そう、率直に言って、この人は漫画が上手いのだ。ほろ苦さもある、と述べたばかりだが、基本的には各話の読後は爽やかで、彼ら彼女らの青春生活が羨ましくなる。群像劇でもあるから、あの話ではメインだったあの子が、この話ではここで登場していて、そういえばあの子とあの子はよく一緒にいるなぁ、とか、ごく自然に頭に入ってきて、何だかこのクラスが他人事では無いようで、愛おしく感じさせてくれる。この塩梅も実に上手い。
<"無用力"あれども、皆、ふつうの青春を送る高校生なのである>
現在は既刊2巻で、そろそろ春には3巻が発売される頃合いだ。ググれば多分、第1話の試し読みはできる(2/18現在、pixivで読める)。
作風が作風だけに、幅広い層に勧められる漫画だと思う。ぜひ、ご覧あれ。
「それ町」の完結。髄液の氾濫。目から涙。
『それでも町は廻っている』が連載として完結したのは2016年10月末。「漫画トロピーク」のランキング対象期間ギリギリであったため、完結枠として、僕は自分のランキングの11位に入れた。そして昨日、2月14日に、最終巻である第16巻、及び公式ガイドブック『廻覧板』が発売された。真の意味での、正真正銘の、完結である。
「それ町」はずっと素晴らしい漫画であり続けた。主人公である歩鳥を始めとした、魅力的なキャラクター達。コメディというジャンルの枠に収まり切らない、ちょっとしたサスペンス要素や、ラブコメ要素、そして物語全体に通底する大きなミステリー要素。
単話ごとのミステリも秀逸な話が多かったが、それ以上に、時系列シャッフルという形式を利用しての、何話にも渡って伏線が散りばめられた、広大で複雑に絡み合った謎が明らかになる時のカタルシスといったら、まさに圧巻だった。
ネット上では、個人のHPあるいは掲示板などで、多くのファンが考察を繰り広げてきた。この話の何コマ目のこれがあの話につながって…云々、この話の真の意味は…云々。物語中で解説されない謎も多くあったので、こうした考察で初めて知る伏線や答えもあったりして、その度に、作者の入念な仕込みに唸らされるばかりだった。10年越しに仕込まれていた伏線を発見した時などは、脳髄がこぼれ落ちるかと思った。
このような伏線や謎が、今回発売された『廻覧板』において、「再読の手引き」として、作者自身の手で解説されているのだが、その膨大な情報量には改めて圧倒された。多分、この全てを解明できていた考察者はいなかったのではなかろうか。ただ逆に、この『廻覧板』でも解説されていない(し切れていない)、細かな要素も幾らかあるようである。たとえば、最終巻のp88,3コマ目とか。これは解説されていないが、よ〜く読まなければ気づかない上に、紺先輩の心情を表すシーンとして非常に重要な意味を持っている。
なんで唐突にこのコマの話をしたかというと、雑誌掲載時に、二、三回読み返した時に初めてアッと自分で裏の意味に気づいて感動した思い入れがあるからである。この話のこのコマだけではなく、念入りに読むことによって、キャラクターの重要な心情の理解に繋がる細かい要素があっちこっちに散りばめられており、何回読み直しても新しい発見がある。面白いことに作者自身も『廻覧板』において、「とりわけ『漫画』は読み返しをしてもらいやすいメディアなので、繰り返し読む事で発見されるような仕掛けを多く取り入れた様に思います」と述べている。僕は冨樫義博の『レベルE』が大好きなのだが、あの漫画も、繰り返し読むことで新しい発見があったりと、細かい伏線が張り巡らされた、ミステリ要素や遊び心に溢れた作品だった。その時以来、かつ、その時以上の経験を「それ町」はもたらしてくれた。
そう、「それ町」は読者を楽しませる、エンターテイメント要素に溢れた作品だったのだ。そういったサービス精神が、多くのファンの心を掴んだのかもしれない。
さて、最終話である「少女A」は、雑誌掲載時、あまり評判が良くなかった。時系列シャッフルであるため、この最終話が時系列として最後に当たるわけでは無いのは分かっていたが、それでも、長年の連載の終わり方としては、僕としても少々肩すかしだった。作者の意図も分からないではない、分からないではないが、もう少し、何か大きなカタルシスが欲しいと思った。それでも、偉大な漫画であり続けたのは間違いなかったし、まぁ、こういうのもアリなのかな……と当時(昨年の10月)思った。
そして昨日。発売された最終巻には、最終話のあとに、13ページだけのエピローグが続いていた。
素晴らしかった。言葉にできない思いが込み上げてきた。見事だった。この漫画のファンであればあるほど、大きな感動がやってくる、実に、実に素晴らしい決着だった。万感の思いとはこのことか、と思った。
最後の最後で、こんな大きなカタルシスが用意されるとは思っていなかった。やはり偉大な作品は、最後の最後に偉大に締めくくった。「それ町」が完結したのは、昨年の10月ではぜんぜん無かったのだ。
『それでも町は廻っている』は昨日、2月14日に、まさしく、完結したのだった。
それでも町は廻っている 公式ガイドブック廻覧板 (ヤングキングコミックス)
- 作者: 石黒正数
- 出版社/メーカー: 少年画報社
- 発売日: 2017/02/14
- メディア: コミック
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米代恭『あげくの果てのカノン』 :レビュー(既読者及び全然興味無かった人向け 少々ネタバレ有りver.)
人間の同一性に対してどう向き合うか
オススメ ★★★★
ネタバレ無しver.から書こうと思っていたが、既に十分話題作な上、ときどき取り上げられ方に疑問がある漫画だったので、ネタバレ少々有りver.から書こうと考えた次第である。なお、2巻の範囲までのレビューである(雑誌連載は読んで無い)。
ネタバレ”少々”有りとして書いているので、これからこの漫画を読む予定であった人は、以下読まない方が良い。ぜんぜん読む気が無かった人、もしくは既に読んだ人向けに、以下レビューを行う。
「ストーカー気質メンヘラ女子の痛すぎる恋に、共感の嵐です!」
これは公式の謳い文句なのだが、個人的にはこのキャッチコピーはまったく頂けない。というか怒っている。何がダメって、メンヘラという文言の安直な使い方だ。メンヘラって、どういう定義と理解して使ってるんですか、と問いたい。まぁこのあたりは、特別個人的な思い入れもあって、そもそもメンヘラというバズワードの存在自体を嫌っているのだが……(精神疾患を十羽一絡げに扱い、ひいては不必要な区別→差別につながり得ると思っているので)。
さらに言うと、そもそもこの全文自体があまり物語の本質を捉えられていない。キャッチーで、話題のフックになりやすいのは理解できるが、率直に言って品が無いと思う。作者の哲学に対して失礼なんじゃないかと思うのだが…その辺りを含めて、以下、紹介していこうと思う。
一応簡単なあらすじを。
ゼリーと呼ばれるエイリアンの襲来によって荒廃した東京の中で、ヒロインである高月かのん(23)は、”先輩”こと境宗介に恋をしていた。彼女は一度高校時代に振られていたものの、それでも一途に彼に恋をし続けていた。境は入隊し、この世界の”英雄”的存在にまで昇りつめ、エイリアンとの戦闘で活躍をしていた。かのんにとって、遠くから見るだけの対象となってしまっていた先輩に、ある日アルバイト先の喫茶店で再会を果たす。しかし先輩は既に結婚をしておりーー。
さて、この漫画の核心は、ヒロインの”ストーカー気質”の濃いキャラクター性、にあるわけでは決して無い。最初、僕もここを勘違いしていたがために、試し読みの範囲内で読むのをやめてしまった経緯がある。だがどうやらこの漫画の魅力は別な部分にあるらしいということを知らされて、しっかり単行本2巻分読んだ次第だ。
<確かにヒロインはストーカー気質で濃く描かれているが、これは物語の只の一要素。ただし可愛い>
本当の核心は、人間の同一性に対してどう向き合うか、という、もっと大きなテーマにある。
物語の真ん中に据えられているのは、境宗介。彼が”修繕”によって”変化”するというのがこの物語最大のポイントである。
この漫画のキャッチフレーズの一つとして「SF×不倫」とある。ゼリーと呼ばれるエイリアンの襲来によって、エヴァ的な、セカイ系的な、終末観が演出されていて、そこは確かにSFであるが、最も大事なのはこの境宗介の”修繕”の要素である。彼はエイリアンの攻撃によって、たとえ脳が破壊されても、”修繕”によって再生される。しかし再生後は、”変化”する。小さい変化の場合は、食べ物の嗜好程度。ところが大きい変化の場合は、人格レベルで変わってしまう。この、人格が変わった境宗介は、果たしてそれまでの境宗介と全く同じ人物として捉えて良いのか? というところがこの物語のキーポイントである。
<境宗介。"左腕が無くなった程度"では大したことは無いのだが……>
この中心の左右に位置し、対立するのが、ヒロインである高月かのんと、境宗介の妻。この二人の女性である。
かのんは、境宗介の”変化”を肯定する。”ストーカー気質”という彼女の性格は、その肯定を担保する一要素である。どう変化しようと、彼女は彼を受け入れる存在として描かれる(ただし、葛藤の描写はある)。
そして妻は、境宗介の”変化”を否定する。彼女は研究者でもあり、”修繕”による”変化”を食い止める研究を行っている。かつての彼を取り戻そうと考えている。
この二人の女性の対立は、同時に、人間の同一性への捉え方に関する価値観の対立となっているわけである。
『あげくの果てのカノン』の英題(副題?)は『AND HE ARRIVED AT THE KANON」となっている。カノンという言葉には、元来「基準」や「規範」という意味があるという。偶然では無いだろう。作者は意識して、この名前をヒロインに当てていると思われる。作中に出てくるパッヘルベルのカノンの挿話は、副次的なものだろう。このタイトル通りに物語が進行していくのか、そこが焦点と思われる。
もう一つ述べておきたいことがある。作者は、四季賞出身で、デビュー作はアフタヌーンでの読み切り『いつかのあの子』。交通事故後に学校に戻ってきた友人は、外見は同じであれども中身が幽霊と入れ替わってしまっており、実は当人は既に死んでしまっていた。それでも主人公は、外見だけでも同じの、その友人を求めてしまう。そういうストーリーだった。人間の本質や自己の同一性について問いかけるテーマであった。
そしてこれは間違い無く、本作『あげくの果てのカノン』にも通底するテーマである。このデビュー作においては、人格どころか中身が丸々変わってしまっていても、それでもその人物を肯定していた。
安直なキャッチコピーに惑わされてはいけない(僕は最初惑わされた。編集許すまじ)。この作品は、作者の哲学が込められた、意外と深いテーマを扱った物語なのである。
以上のレビューを行ったが、プロットのネタバレはほとんど行っていないので、その点においては未読者は安心して欲しい。
春頃に3巻が発売されると思うので、また内容次第でレビューを行いたいと思う。