ねとねとねとはのねとねと日記

現実と想像とマンガ

『フラグタイム』の漫画と映画は似て非なるアナル

漫画版の『フラグタイム』のクライマックスのシーンを、何回も読み返していて、一巡に30分くらいかかるから、毎日その間にお風呂が冷めちゃって困る。

聞こえる……ブタの鳴き声が

f:id:netoneto:20200828010656p:plain

今更でスマンやで。

世の中に遍く存在する百合豚が「フラグタイム尊いブヒ」と鳴き始めたのが2014年頃のことだったと思う。連載期間は2013-2014年。

話題になっていたのは漫画豚である私の耳にも届いていたから、当時試し読みくらいはしていた。でも一話で切っちゃった。ほんま、ブヒブヒうるせぇなぁ、これだから百合豚は……とか思っていた。

それからしばらく経ってから、今度はアニメ映画化するブヒ、ブヒブヒ、という鳴き声が聞こえてきた。

その頃にはすでに私はミーム汚染を受けて百合豚にジョブチェンジさせられてしまっていて、悔しい脳悔しい脳、でもキモヂイイブヒ〜とか鳴くようになっちゃってたから、それは聞き捨てならんブヒ! ってなった。

でもな、むかし一話で切っちゃってたからな、映画の話題性とか聞いてからまた観ようかな、って思ってたのね。で、そしたら案の定、映画最高ブヒ、ブヒブヒ聞こえてきたから、ほな観よかな、ってなったのね。でもまぁいつでもええかくらいに思ってたのね。

で、そろそろ観ようかなって、なったのが先週ごろなのな。

少し話がズレるけど、SF小説の『裏世界ピクニック』が好きで、今度同じ監督(佐藤卓哉)でアニメ化されるって聞いてたから、そろそろ手を付けとかんと、ますます豚たちにマウント取られてまうで、っていう焦りもあったのな。

アマプラで映画を借りて観た

f:id:netoneto:20200828010840j:plain

で、観たんだけど、まぁ、よかった。

「よかった」っていう感想は「カレーライスおいしい」くらいの情報量しか無いが、しかしとりあえず「よかった」と言っておこう。福神漬け程度に付け加えれば、エンディングで原作持田香織の“fragile”が主演2人の歌声で流れたのは、よかった。 

土下座しながらKindleで買って読んだ

本題はここからなんだが、そのあと漫画版を改めてちゃんと読んだんですよね。

そしたらむっちゃ面白くって、6年前の私の保有ミームとの差異に思いを馳せざるを得なかったんだな。意味わかります? 百合豚ミームウィルスに感染した結果、物語の捉え方に変化が生じたっていう、怖い話でもあるんですよ。なぁ、あんたもひと事ではないんやで。

映画版と漫画版はほぼ同じプロットだから、知ってる知ってるって思いながら読んだんだけど、それでも十分面白かった。

あらすじは改めて書く必要ないですよね?

「時間を一日3分間だけ止められる引っ込み思案のJKが、なぜか自分の停止世界に一人だけ入り込んで来れた同級生のJKと、百合をする」という話です。知ってますよね?

 

f:id:netoneto:20200828010158p:plain

 

以下、あんまりネタバレ気にせずに考察していくよ(一応、最重要ネタバレは回避している)。 

設定の段階ですでに一勝している

そもそも設定の単純さがうまい。

百合豚ミームのコンテクストの一つに「共犯者」という関係性があることを、あんたも知っているだろう。知らない? いや知ってるでしょ。「死体を女ふたりで埋めに行く」っていうやつ。『響け!ユーフォニアム』でもそういうシーンあったでしょ。

この漫画ではあらすじでそのまんま分かるように、止まった時間3分間のあいだに、JKふたりが秘密の時間を共有するわけで、この設定の段階であんたの百合コンテクストのスイッチが入っちゃうから、もうあんたの負けなんだよな。

二者関係への特化

本作では基本的に、二者関係のみを描く。

作者のさと先生もインタビューで答えてたのを目にしたけど、どうも三者以上は不得意な分、二者関係の描写が得意らしい。あまり複雑じゃないけど、単純な関係を丹念に描くのが好きそうなのは、作者の他作品を読んでも感じた部分ではある。

そして本作のポイントは、クライマックスまでは一貫して、主人公である「森谷さん」の視点から構成されているところにある。相手の「村上さん」の思考は最後まで隠されていて、最後の最後に明らかになる

こういう視点の固定というのは、時にかなりの威力を発揮する。あんたも『僕の心のヤバイやつ』が好きらしいな。そういうことだ。私の好きな作品『満月エンドロール』でも視点の固定が効果を発揮していたことを思い出す。

視点の固定は、おそらく、いくつかの恩恵を読者と作品にもたらす。

主人公への強い感情移入、他のキャラクターの内面の想像の余地、そして謎とカタルシス

この辺りの要素が本作では有効に機能していて、最終話で実際に「村上さん」の内面が明かされることで、強いカタルシスを生んでいる。

最初からこの構成を作者が計算していたことがよく分かる。「村上さん」が動揺する場面を、作者は終盤まで徹底的に隠している。顔の汗とかの感情的記号もほとんど付けない。平静を装って何を考えているのか分からないように描いている。

f:id:netoneto:20200828013357p:plain

クライマックスが白眉

そして、私が何回も読んでいるクライマックスの場面、ここが良くできている。

これまでの感情の隠匿を一挙に解放するようなエモーショナルな会話劇と、それを演出する、学校の教室や廊下という舞台の描写。素晴らしい。

一切オモテに本心を晒してこなかった「村上さん」の感情が爆発するのが爽快で、実際、主人公の「森谷さん」も同場面で「だめだ うれしい」と興奮しちゃっている。

これはもう率直に言って射精である。(射精は広義の意味で)

 

f:id:netoneto:20200828013927p:plain

『フラグタイム』の漫画と映画は似て非なるアナル

実はこのクライマックスの場面、映画と漫画でかなり印象が異なる。私の意見としては、このクライマックスの演出の差で、漫画版が圧勝している

そもそも、映画と漫画で、主人公の森谷さんのキャラが微妙に違う。映画版では微妙に大人しくなっている。なんというか、どうも原作漫画の方がお茶目なのである。この差がクライマックスで意外と効いてきているように思える。

クライマックスのキモは、森谷さんが村上さんを刺激・挑発して、彼女の隠匿していた感情を引きずり出すところにあるのだが、茶目っ気のある原作森谷さんの方が、調子に乗りやすくて”おちょくり方”が自然なのである。「この女、さては興奮しておる」と読者に思わせる。だから感情移入していた読者もいっしょに興奮、絶頂射精に至るという理屈だ。(射精は広義の意味で)

 

f:id:netoneto:20200828014019p:plain

また、漫画版ではこの最後のふたりが応酬する場面に、ギャラリーがいる。映画版にはいない。これはもう演出のニュアンスが決定的に違う。この場面のギャラリーは、二者関係を取り巻く「社会」に他ならない。「私とあなたと、このセカイ」ということだ。先ほど「共犯者」の話をしていたが、なんでこのミームが浸透したかって、そこにはやっぱりセカイや社会への後ろめたさや淫靡さがスパイスになって感情値や物語性が増したりするから、でしょう、たぶん。そして原作漫画では、この感情値がセカイに開放される。共犯関係が白日の元にさらされて壊れるところに快楽がある。

f:id:netoneto:20200828014202p:plain

 

さらに漫画版では、社会側(表面的な友人)からの重要な反応もあり、ふたりの関係性への後押しも行われる。

 

f:id:netoneto:20200828014637p:plain

一方、映画版では、ギャラリーは存在せず、誰もいない廊下での二者関係がクライマックスとなっている。一応、廊下に飛び出す直前の教室シーンでは、原作同様に「みんな」への告白が行われてはいるのだが、そのあとはまた二人だけの静かな世界に戻ってしまう。これは意図する演出の構造が全く異なる。(ひとり、男子生徒がふたりの後ろを通り過ぎるが、彼は全く彼女たちに興味を示さない)

そんなことは映画の作り手も百も承知のことだろう。つまり、映画版は、「3分間の停止世界が無くても、心が通じ合ったふたりは、ふたりだけの世界を新たに構築できた」というメッセージを選んだということだ。それとは対照的に、原作は「心が通じ合ったふたりの力があれば、こんなセカイでもいっしょに強く生きていける」というメッセージになっている。これらは似ているようでだいぶ違う。

演出の構造が違うと、このように、主題となるメッセージもだいぶ方向性が変わってくる。

ところが! である。

クライマックス後のエピローグでのセリフが、映画と漫画で、ほぼほぼ同じなのである。ここで、先ほどのメッセージのズレが違和感を生んでしまう。

f:id:netoneto:20200828011755p:plain

「自分以外の人たちのいる世界に入る努力をするようになった」というセリフは、映画版でも全く変わっていない。そのため、前述の映画版で改変されたメッセージとズレが生じてしまっているのである。

この私の解釈が当たっているとすれば、残念ながら映画版では詰めが甘かった、ということになるだろうか。。。

なお、擁護しておくと、映画版の演出は概ね高い水準にあって、心情描写と情景描写の重ね合わせ等にかなり労力を割いているのが見て取れて、そういう工夫を観れるのは楽しかった。音楽のシナジーも良い。声優も映画版のキャラには合致していた(宮本侑芽は好きだ)。映画は映画で「よかった」と思う。ただ、原作の完成度が著しく高かった、ということだ。 

結論

良くできている漫画だった。6年前に読んでいるべきだった。

全2巻という長さは、このワンアイディアの二者関係を描く分量として過不足が無い。

テーマ自体はありふれている。対照的なようでいて実は似ていたふたりが相補的に互いを求め合う、というのは王道的なものだ。ただしそれへの味付け全てが、満点の出来だった。

 

作者である”さと”先生は京都精華大学の漫画学部出身ということである。理論に裏打ちされた作劇として、なるほど納得がいく。

あと今wikipedia見て知ったけど、漫画家の村田真哉と2012年に結婚していたと。ほえー。

なお、本稿ではネタバレしまくったが、最も重要なネタバレはしっかり避けているので、未読の方は一応安心してほしい。この最重要点も、単純に演出面で原作の方が上回っていたので、映画を観たあとに原作を読んだ私も、改めて感動させてもらった次第である。 

フラグタイム

フラグタイム

  • 発売日: 2020/05/13
  • メディア: Prime Video
 
フラグタイム 1 (Championタップ!)

フラグタイム 1 (Championタップ!)

  • 作者:さと
  • 発売日: 2014/03/07
  • メディア: Kindle版
 
フラグタイム 2 (Championタップ!)

フラグタイム 2 (Championタップ!)

  • 作者:さと
  • 発売日: 2014/11/07
  • メディア: Kindle版
 

『タイムパラドクスゴーストライター』はパンツを宣言するゲーム理論

世の漫画は大きく二つに分けることができる。

パンツが描かれる漫画と、死んでもパンツが描かれない漫画だ。

お前らにおいては、このことは重々ご承知のことだと思う。

当たり前のことだが、漫画のコマの中の構図は、すべて作者がコントロールしている。
美少女ヒロインがどんなに短いスカートを履いていても、お前が死に物狂いで歯を食いしばって覗き込もうが何をしようが、作者にその気が無ければ、お前の願望が満たされることは永遠に無い。

たとえば最近のヒット作、『五等分の花嫁』の作者・春場ねぎ氏はtwitterでこう述べている。

この種の宗教に入っている漫画家は意外なほどに多く、その結果パンツが見たいお前らは無限に苦しむ。
私はそのことを非常に悲しく思うが、どうしようもない。

せいぜい「パンツ描いてくださいお願いしますなんでもしますから」とアンケートを出す程度しか方法は無い。あるいは多額の賄賂を渡すか。しかし、真の漫画家は金に釣られて改宗することは無いだろう。我々が見たいパンツは真の漫画家のそれのはずだから、金で買えるパンツはパンツでは無いということとなり、矛盾が生じてしまう。

結局、パンツを描かない漫画家であると判断したら、諦めるしかないのである。
我々は現実を見なければならない。

であれば、次に我々が行うべきことは、”描く”漫画家なのか、”描かない”漫画家なのか、見極めることである。

それがベテランであれば、議論の余地は無い。

たとえば───これはパンツでは無く乳首の話になってしまうが、パンツも乳首も似たようなものなので、話を混ぜこぜにしてしまうのだが───藤田和日郎という漫画家は、たいていの作品でヒロインの乳首を描く。
なぜかは知らないが、たいてい描かれる。そのため、我々読者は聖母マリア(の乳首)に抱かれるかのごとく、安心して漫画を読み進めることができるのである。

では、新人の漫画家ならどうか? 我々はどこで見極めればよいのか。

私なりの答えは、これである。

デキる新人は第三話までにパンツを宣言する

賢しいお前らにおいては容易に理解できることであろう。
簡単に説明しよう。

まず、パンツを見たい我々にとっては、この新人はパンツを描くのか否か?ということを、できるだけ早く知りたい。パンツがあるだけで希望が湧いてくるからだ。

そして、新人漫画家にとっても、そのことは分かっている。したがって、「パンツを描こうと思っているのに」「パンツを描かない漫画家だと見なされる」ことは、多大なる損失を生むことになる。賢しい漫画家であるほどそのことは分かっている。

よって、パンツを描く側の人間であれば、パンツを早めに宣言する。それがだいたい第三話までだろう、というのが私の読みなのである。これはゲーム理論の応用なのである。私はこのことを学ぶためにアカデミアに身を置いているといっても過言では無い。

もう少し説明を続けよう。

第一話でパンツが宣言される場合は、それはラブコメ漫画である可能性が高い。パンツが早ければ早いほど、確かに価値は落ちるので、薄利多売の戦略となるはずである。

第二話、第三話での宣言の場合は、どのジャンルにせよ、さりげなく描かれていることが多く、価値を高めようとする意図がおそらく働いている。

第四話以降だと、連載を追わずに脱落している可能性が高くなるため、リスキーである。

よって、上記の結論となるわけである。

そして、私は価値の高いパンツに価値を認める。ゴミのようなトートロジーであるが、きっとお前らにおいては共感を示していただけるものだと思う。

 

さて、遅くなったが、本題に入ろう。

ジャンプの今期の新連載の『タイムパラドクスゴーストライター』の第三話をみてみよう。

f:id:netoneto:20200613212050p:plain

集中線の焦点はヒロイン両手のGペンであるが、実質的な焦点はジャンピングパンツである。

率直に言って、この第三話における、主人公とヒロインの会話劇はかなり雑である。強引な話運びであり、ご都合主義の謗りを免れることはできないだろう。 

ただし、このコマでパンツを宣言したことで、一定程度の安心感を我々読者に与えてくれたのは確かである。この点においては、作者はかなり計算しているに違いない。 

もしかすると、強引な話運びは、このジャンピングパンツを見せるために作られた可能性すらある。

なお、現在の第四話まででパンツはこのコマだけであり、希少性は保たれている。
私の読みでは、単行本一巻の範囲内でもう一回くらいはパンツが宣言されると考えている。
さしあたって次の第五話に描かれるのかどうか、注視しておきたい。

ちなみに現在のところ、この作品のストーリー自体の評価は保留である。まだ主軸が描かれていないのである(だからこそパンツだけでも宣言した可能性すらある)。

週刊少年ジャンプ(24) 2020年 6/1 号 [雑誌]

週刊少年ジャンプ(24) 2020年 6/1 号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/05/18
  • メディア: 雑誌

漫画を読むならアナライズしろ

コロナの時代は立ち読みと相性が悪い。

コロナをうつし、うつされる覚悟が無い者はコンビニから去らねばならない。。。

この世界はもう変わってしまった。。。お前も変わる必要がある。。。

雑誌は電子書籍を買え。
マンガアプリを入れろ。
コミックdaysプレミアムに加入しろ。
komifloで快楽天を読め。

ところで近々、久しぶりに漫画レビュウを再開しようと思う。
飯を食えばウンコを出すのと同じこと。

今日はそれを言いたかっただけやが───もうひとつ。

最近こんな本を買った。

『マンガの認知科学:ビジュアル言語で読み解くその世界』

私は認知心理にも多大な関心があるので二重に美味しそうだ。
ヒマな時に読もうと思うし、読み終わったらレビューするので、よろしくどうぞ。

『付き合ってあげてもいいかな』を読んでいなかったからマウントは取れない

f:id:netoneto:20191118164106p:plain

完全にしくじった。

年の瀬はマンガ・ランキングのシーズン。この1年間でどのマンガが一番面白かった? 私が所属しているサークル「漫画トロピーク」でもランキングの企画が毎年行われており、つい最近ベストnが決まった。現在鋭意編集作業中で年末コミケで頒布の予定なわけ。それで、メンバーの総意で決まった上位のマンガに、私が読んでなかったマンガが沢山あったわけだ。それは私の失態なんだが、しかし上位のマンガはホンマにオモロイんかいなと、ざっと読んだんだな。で、某順位の『付き合ってあげてもいいかな』も読んだんだが、面白すぎて、マジな話、たまげた。完全にミスった。なんでこんな面白いマンガを見逃していたのか。アホか。というか尊い。尊み秀吉よりも尊い。尊すぎて、読みながら漕いでいたエアロバイクが止まらなくなった。エアロバイクも私も熱暴走し、果てた。

完全にミスった。

私はもうマウントを取れない。

「『付き合ってあげてもいいかな』ですか? マンガワンで連載始まった時から読んでますが何か」とのたまう人間に私は一生マウントを取れない。

しくじってしまった。

しかし、待て、待て。それでもまだ私はマウントを取れる。まだ「『付き合ってあげてもいいかな』を読んでいないand ifそれを読んだら面白いと感じる」人間に対してのみマウントを取ることができる。

私がマウントを取るためにも、あなた方にもこのマンガを読んで欲しい。そして、尊み秀吉よりも尊くなって欲しい。そう願って、この度私は筆をとったわけなんですね。

f:id:netoneto:20191116210538p:plain

あらすじ:犬塚みわは大学に入学したばかりで、新しい恋を始めたいとぼんやりと思っていたものの、新歓時に知り合った猿渡冴子の他に友人すらろくに出来ていなかった。美しい容姿の彼女は、冴子と共に何となく入った軽音サークルの新歓コンパでも早速男にモテてしまうが、同性愛者である彼女はそのことを告げる勇気もなく、溜め息をついていた。そんな飲み会の帰り道、酔っぱらった状態で冴子と2人で恋バナに花を咲かせていたところ、冴子も同性愛者であると知る。そして互いにカミングアウトした直後に、みわは冴子にこう告げられるのだった。「せっかくだからあたしたち、付き合ってみない?」と……。 

f:id:netoneto:20191117125400p:plain

左が冴子、右がみわ

2018年8月より「マンガワン」にて連載中で、同アプリ内でも人気は高い(何で読んでへんかったんや)。既刊2巻。3巻は12月に発売予定。

あらすじで記した通り、ジャンルはガールズラブ。いわゆる百合漫画。あるいは女女漫画。このジャンルは急速に市民権を得てきており、今や石を投げれば百合に当たる状況である。百合といっても、度合いは作品によって様々で、たとえば百合空間というか、百合カップルまみれの世界観で、現実とは距離のあるファンタジーじみた作品も多い中、本作はかなり現実に寄って描かれている。舞台は主に大学の軽音サークルなわけだが、いかにも一般的な大学の一般的な軽音サークルの雰囲気(多分)で、陰キャ陽キャが入り乱れ、レズビアンに理解がある人からそうでも無さそうな人まで、今時の令和の空気感に近いものがある(多分)。また本作は(ステレオタイプな恋愛漫画でよくみられるような)付き合うまでの紆余曲折を描くものではなく、付き合ってからの苦楽を描いているのも特徴としている。

f:id:netoneto:20191117171334p:plain

思慮の浅い声をかけられることもある

上記のあらすじは犬塚みわを主人公のごとく書いたが、それはオープニングがみわ視点であったためで、実質的には冴子も同等に主人公である。この漫画は、各話ごとに視点人物が明確に決まっていて、基本的にはみわ視点か冴子視点で話は進む(視点人物以外のモノローグは一切排除される)。時折例外的に他のキャラクターの視点となることもある。後述するが、これら視点の使い分けはかなり徹底して運用されており、この漫画を語る上で見逃せないポイントと言える。

さて、我々は令和になっても小池一夫の呪縛から逃れることは出来ていない。つまり漫画の面白さの大部分はキャラクターの魅力に左右されるわけだが、実際、本作のみわと冴子は十分魅力的な主人公である。

f:id:netoneto:20191118230021p:plain

いかにもモテそうなみわ。ちなみにこの漫画は、ブラ紐をちゃんと描く。

犬塚みわはどちらかというと受動的で、美人・不器用・嘘をつけない・流されやすい、といったキャラ。猿渡冴子は能動的で、大雑把・器用で世渡り上手・社交的、といったキャラ付け。これらはあくまで基本的な要素であり、それぞれの過去に根付いた業があることが徐々に明らかになっていく。そして簡単には変えることが出来ないその業から生じたパーソナリティの違いが、少しずつ2人の間のすれ違いを生んでゆく。そのすれ違いの描き方は、なかなか容赦がない。ある意味では突き放したように、残酷に冷徹に描かれている。ステレオタイプなエンタメであれば、ひとつ困難が生じれば解決し、また次の課題が出現してはクリアし……の繰り返しだが、この漫画ではひとたび生じた不協和は簡単には解決されず、その後もずっとシコりが残り続ける。この辺りは妙なリアリティを感じさせる。こういうこと、なんか現実にもよくある気がする、と。これは当たり前と言えば当たり前で、人間と人間は互いに分かり合えない部分が存在するのは当然で、そこにどう折り合いを付けたり妥協したりするかが大人の付き合いというものである。そして本作の主人公たちは互いの価値観が結構違うし、揃ってかなりめんどくさい女である。めんどくさい過去を背負っているし、めんどくさい性格をしている。というか、見ようによってはクソ女であるとも言える。しかし同時に魅力的で可愛い。読者としては共感できる部分も多い。

f:id:netoneto:20191118225625p:plain

冴子の業

これらの描写は、確かな演出の実力に裏打ちされている。視線誘導などのテクニックは基本的ながらも、かなり意識しているさまが随所に見受けられる。(全然関係ないが、某週◯少年ジャンプとかではこういったリテラシーがまったく共有されていないようで、新人の新連載などでも全くもって読みづらいことが多く、指導すべき編集者の杜撰さには目を見張るものがあり、視線誘導警察の私は毎回キレている。決めゴマで、主人公の必殺技が左から右に放たれるのを見る時などは力が抜ける。こういった素養はたとえば講談社などは一枚上手な印象がある。さすが四季賞とちばてつや賞を擁する出版社やで)

で、テクニカルな画面作りで私が気に入ってる場面の一つがこれ。

f:id:netoneto:20191117075956p:plain

私の乏しい知識からは、この手の画面作りは元々は少女漫画の系譜に近い(たぶん)。まぁ今や至る所に輸入されて、極端な例では西村ツチカなんかがこの手の妙手と思われるが……(たぶん)。ちょっと、詳しい人、教えて欲しい。

絵柄としては、分かりやすく画力が高いというわけではないが、かなりの安定感があり、スルスルと目に入って、ストレスが少ない。恐らく絵に載せる情報の足し算と引き算が上手いのだろう。キャラの造形は志村貴子にやや近い。場面転換のテンポなどもそういえば志村貴子に似ているところがある。

さて、このあたりで、先に少し触れた、視点の固定化が発揮している強さについて説明したいと思う。

先述のとおり、第一話はみわ視点。第二話もみわ。第三話は冴子視点。第四話は冴子。第五話はみわ。第六話もみわ。第七話は冴子。と、各話で視点はバラバラであり、モノローグがあるのは視点人物のみ。視点人物以外のキャラの思考は明示されないので、こちらで想像しなければならない。読者は基本的には視点人物に感情移入する力学が働くので、相手が場面場面で何を考えているのか、主人公の一人といっしょにヤキモキするわけだ。そしてこれが漫画の醍醐味なのだが、優れた演出を読み解くことで、キャラの心情を解釈することができる。視点人物の心情にはブーストがかかるし、相手キャラの心情は推測ができる。この旨味を味わうこと、それが限界感情エモエモへの一歩なのである。

最近『僕の心のヤバイやつ』という漫画が超絶市民権を(私の観察領域で)得ているが、あれは視点の固定化が最大限の力を発揮して成功に結びついた好例だろう。(と、今井哲也も褒めていた。)

ちなみに軽音サークルの友人などのサブキャラクターも時折視点人物になり、主人公たちとは全く違う価値観の提示を行い、世界の奥行き、ないしは立体感をもたらしてくれている。これは群像劇とはやや異なり、あくまで主人公二人の立っている足場を堅固にしてくれているもの、と捉えている。

若干話題はシフトするが、上のシーンをもう一度例に取る。ここは冴子視点で、じっくり読まないと分からないが、実は彼女自身もまだ気付いていない己の鎖に半ば縛られている、というシーンである。実は既に二人にひずみが生じていることを彼女たちは未だ理解できておらず、読者(あるいは神)視点のレベルで初めてエモさが生じている。すなわちこのエモさは、キャラへの共感から生じるそれよりも一段階メタのポジションから生じているわけで、技術点が高い。こういった読解が要求されるシーンは時折出てくるが、作者のリテラシーも高ければ、読者へのリテラシーもある程度は要求されている。望むところではないか。それでこそ初めて見える景色があるというものである。

最後にもう一つ、ダメ押しで例を。

f:id:netoneto:20191118230304p:plain

これは第一話の一場面であるが、少ないコマで多くの情報量があるのが分かるし、読みやすい。食事の内容で性格の違いを表し、冴子の鋭さやみわの流されやすさも一瞬で伝えている。しかもこれらはキャラの根幹となる性格要素で、今後作中で一貫して問題になってくる。場面転換もスムーズでこなれている(左下のコマは新歓コンパの場面)。相当上手い。

 

と、いう風に、漫画も上手いし、キャラも立ててるし、舞台のリアリティも優れているし、非常に感心させられる漫画である。もちろん面白い。作者は商業連載としては2作目であるが、バックグラウンドとしては、コミティアにて腕を上げてきていたようである。私は関西住みなので東京のコミティアには簡単には顔を出せないが、こういう作者を青田買いできるのなら、コミティア沼にハマる人がいるというのも分かろうものである。で、そんなコミティア沼にどっぷり昔から浸かっている人間も所属している「漫画トロピーク」は年末のコミケにて、2019年漫画ランキングを収録した冊子を頒布予定だよ。是非試しに読んでみてね。

はい、というわけで、『付き合ってあげてもいいかな』は優良女女漫画。百合をあんまり嗜まない人でも、男女漫画とはまた違う機微を存分に味わえるので、読んでみるといい。百合好きには言うまでもないし、まぁ大体の百合好きは既に読んでいるんでしょうな……。

ネタバレに配慮しない感想文はまた後日書くかも。よろしくね。

付き合ってあげてもいいかな(1) (裏サンデー女子部)

付き合ってあげてもいいかな(1) (裏サンデー女子部)

 
付き合ってあげてもいいかな(2) (裏サンデー女子部)

付き合ってあげてもいいかな(2) (裏サンデー女子部)

 

『わたモテ 喪158』〜吉もこ吉まこ吉まこまこ……あばばば〜

聞こえる。お前らの、苦しみの声が。

私は家にいながらにして、森羅万象の声-koe-を聴くことができる。

この能力を持つことは非常に苦しい。大抵の声は苦しみに満ちているからだ。今日の11時29分までも、そんな苦痛の声に苛まれていた。そう、わたモテを求める亡者のようなお前らの声だ。2週間待ち、1週間待ち、3日待ち・・・。更新時間が迫れば迫るほど、1秒が長く感じられ、最後の1秒などは無限に等しい時間に感じられたはずだ。永遠にわたモテにたどり着かないのではないかと、恐れたことだろう。そんなスタンドがあっただろう。永久に地面に辿り着かない的な。アレと同じだ。

幸い現実はスタンドと違うので、無事わたモテ喪158は更新された。お前らの狂ったような悦びに満ちた声は森羅万象とツイッターを通じて聞かせてもらった。本当に良かったな。おめでとう。

さて喪158は、まずまずの既定路線として、前回が表としたら、今回は裏の話だった。厳密には1日分足りないが。

今回のエピソードもある程度続きそうである。謹慎7日間として、表が2日、裏が1日終わっただけである。これがあと1話で終わらすということはあり得るか? 無いと思うが。わからない。展開を予想するだけ無駄である。神-NICO-に翻弄されよ。ただ、表と裏が合流することは間違いないとは思うので、それが2日目のゆりネモと交わるのか、土日編に突入するのか、といったところだろうか?

 

いつもながら、賢明なお前らがアノニマス的に粒ぞろいの考察を生み出し始めており、まことアッパレな限りである。私はごくごく市民的感想を述べるにとどまる。。。

しかし……ページ数に比して、見所の多いことよ! 毎度毎度、新しい要素を躊躇なく打ち込んでくるので、オミソの処理が追いつかない。少し、見所を列挙してみよう。

 

f:id:netoneto:20190606210247p:plain  f:id:netoneto:20190606210623p:plain

まず、教師からの視点の提供。生活指導担当っぽい教師を含め、先生ごとにスタンスが違うという演出。椅子に座る姿勢の違い(足の組み方)など、相変わらず芸が細かい。近頃定番の「以前のもこっちとの対比」を、1年時の担任を持ち出してやってみせた。荻野はもはや、友人が多くなったもこっちについて殊更に言及することはしない。このような多人数の描き分けは、いつもながら、物語の立体性の強化に寄与している。

f:id:netoneto:20190606210657p:plain

久々の登場が予想されていた、もこっちの母親。友人関係についての言及は無かったものの、娘想いのお母さんの演出。注目するべきは、もこっちもその母の優しさをしっかりと認識しているところだろう。すこし戸惑いながらも。

f:id:netoneto:20190606210733p:plain

謹慎1日目登校時の、擬似ぼっち演出。今やもこっちの方から扉を開かずとも、あちらから扉が開かれ、友人(吉田さん)がやってくるという、メタファー。こういうのも、本当にうまい。ストーリー上の既定の演出(もこっちが先に登校した)の上に、擬似ぼっち演出を被せており、尋常ならざる神(NICO)の手腕を感じざるを得ない。

f:id:netoneto:20190606210820p:plain   f:id:netoneto:20190606210830p:plain

今回のメインディッシュであろう、”吉もこ”。関係はさらに近しくなってゆき、もこっちがどもる頻度もかなり少なくなった。もこっちは修学旅行時から吉田さん(ヤンキー)に対して、減らず口を叩いてきたわけだが、そのベクトルのまま、気の置けない仲といってよい関係性にまで迫ってきた。その分かりやすい表れが、怪談話の場面であろう。どちらかというと以前は失言に近かったセリフが、親しさに裏打ちされた毒のある冗談へとシフトしているように思う。

f:id:netoneto:20190606210912p:plain

吉田さんからの歩み寄りも目立つ。こちらも、「面倒をみてやっている」とも捉えられた以前の吉田さんの態度からは変化し、対等で親しい間柄に思えるようになった。その象徴が、吉田さんがおごるコンビニのアイスコーヒーの場面(雨の日にもこっちがおごったホットコーヒーとの対比。まぁそこまで深い意図は無いと思っているが、収まりのよい演出)であろう。もはや吉田さんはもこっちのことを”ガキ”と呼ぶことはないだろう。

f:id:netoneto:20190606210946p:plain

あとは、みんな大好き”吉まこ”というところだろう。ほんまニッコは我々を翻弄しよるで。まこっちという女の子は、少なくとももこっちとの絡みにおいてはなかなかキャラが立たず、ストーリーを通して変化にも乏しい(キャラクターアークがほとんどない)ため、地味に映りやすい。が、こと吉田さんとの絡みが意味深過ぎるので、関係性の連鎖的誘爆からは逃れられません。本当にありがとうございました。

と、多岐にわたるテーマを、これでもわたモテにしてはゆっくりじっくりと展開したため、「長い1日」の表現としても成功している。

ほんまバケモンやで。

 

そういえば、先日(6/4)のイッコ先生が出演したネットラジオは、当然あんた方もお聴きになったことだと思う。短い時間だったが、神託に等しきお言葉をいくつか我々は頂戴した。しかしやはり足らない。ぜんぜん足らない全く足らない。

6月11日、もう30分だけイッコ先生がご出演される。お前らはその日までに耳垢をきっちり掃除せねばならない。信託を1ピコ秒とも聞き逃さないために。さすれば救われよう。

 

さぁ、次回更新まで、またしても天文学的時間(2週間)を待たねばならない。

お前らの苦しみの声、私が引き受けた。